OKURA ART CHINA 「薄肉彫鳳凰菓子鉢」1919年の創業以来、大倉陶園は日本における最高級の洋食器メーカーとして、美術的価値の高い磁器を作り続けてまいりました。
GOSU SHOSOIN 「呉須正倉院」数ある正倉院御物の中にあるシルクロードの芳香を色濃くとどめた忍冬唐草文や唐花文様の描かれた見事な宝物から想を得て、誕生したデザインです。
BLUE IMPERIAL「ブルーインペリアル」ルリと金彩の対比した華やかな美しさと、岡染のバラが風情を添える高級感あふれるフォーマルなデザイン。
良きが上にも良きものを
宮家をはじめとする、多くのご贔屓筋がオーダーメードする究極の磁器は、限られた最高の天然資源と職人の人生の一部を買うことに他ならない。
大倉陶園の磁器を手に入れるとは、そういう事だ。
丁寧に扱えば子々孫々まで使える道具は芸術の域に達し、洗練された器は料理や飲み物の価値を高め、テーブルに集う人々の満足度を増やしてくれる。
大人が惚れ込む道具とは、使い込んで、愛着が生まれ、新品以上の価値を持つ。俺の大切に使ってきた器がコレクタブルになる日が待ち遠しい。そんな自らの人生の証人になるような器を持ちたいものだ。
戦前の顧客リストに連なる名前は、皇室をはじめ、徳川家・三井家・住友家・岩崎家・満州鉄道・帝国海軍・李王朝・張学良、全国各地の有名ホテルなど、政財界はもちろん、様々な業界の著名人も得意先として登録されています。
また、外務省も主要顧客で、多くの日本国の在外公館で大倉陶園の名器が使われ、昭和11年頃からは、海外顧客のオーダーメード品の輸出も多くなっていきました。
戦後では、迎賓館赤坂離宮と京都迎賓館向けに、賓客をもてなす器を大倉陶園が納めました。昭和天皇陛下満80歳のお祝品も、政府専用機機内食器も、洞爺湖サミット晩餐会用の食器も、大倉陶園の作です。名前を聞けば、あの高級レストラン!とわかる数々の名店も大倉陶園の常連客です。
これだけ多くの日本の一流人や名家が大倉陶園を指名し、自らの道具をあつらえさせたのか?私の仮説、当たらずとも遠からずだと思います。
単なるお得意様ではなく、大倉陶園を育て、ともに生きるご贔屓筋の一員になることに、お金では買えない満足度と、名誉にも似た価値を感じていたのかもしれません。
一般人がお金を払って買えるものには興味がなくなり、自らのオリジナルが欲しくなるものです。自分だけの器、もちろん、それを人にプレゼントするのも格別な満足です。
確かに、素晴らしい料理は人を幸せにしますが、その料理の器が格別であれば、食事が文化になり、教養になり、単なるお腹を膨らませる食事から、社交の場であり、エンターテイメントの場であり、栄光の場であり、特別感を感じる場にもなるのは間違いないです。
一流の人間が値打ちを感じるポリシーと品質があったから、大倉陶園は数多くのファンに支えられたのだと思います。デザインは新しいものが出ても、大倉陶園魂は創業以来変わらないので、一流の男のぶれない信条みたいなものに刺さるのだと思います。『自らは死んで消えても、器は残る。』そんな感覚なのかもしれません。
最近の医科学の進歩で、男性ホルモン値と人生の成功は、正の相関性が解明されてきました。ビジネスでも政治でも芸術でも、成功には、リスクを取るチャレンジ精神が必要です。組織をまとめるには、自己犠牲の精神と公正な判断力が求められます。 こうした精神や能力は、実は男性ホルモンが強く影響していることがわかってきました。つまり、成功者や組織のリーダーは男性ホルモンが一般に高いのです。
男性ホルモンが高い男は、他人に物を与える事に喜びを感じ、目立つ事が好きです。
おまけに収集癖もあります。戦国大名が茶器を収集したのは典型ですが、成功した男が時計や車をコレクションするのは万国共通。骨董趣味やコレクタブル(切手やコインや陶器や漆器が典型)を集めるのも、男の成功者に多いのは、誰しも合点が行くと思います。
墓は典型かもしれませんが、短期間で価値を失うものではなく、遠い未来まで価値を持つものに成功者が惹かれるのは確かです。 大倉陶園の磁器としての品質はもちろん最高級ですが、実はアフターサービスも素晴らしいです。リピーターとして、数多くの成功者を繋ぎ止める満足度を兼ね揃えているのが大倉陶園とも言えます。
大倉陶園のご贔屓筋は、大倉陶園の登場以前、ヨーロッパの高級ブランド陶磁器を購入していました。明治天皇は正式な衣装を洋装に改め、正式晩餐会の食事はフレンチに定めました。宮家はもちろん、政財界の大物は当然、自分も洋装と洋食器が必要となり、その購入の為に多くの外貨が流失していたと推測されます。
それを止める意味で、大倉陶園の登場は吉報だったはずで、さらにそれを、外貨を稼ぐ産業に成長させたいとの想いに繋がったのは想像に難くないです。
また、デザインや色の具合を確かめながら、オリジナルを作るプロセスを海外ブランドでするには、当時の交通輸送手段ではあまりに時間と費用が掛かったのは間違いないです。日本国内で作る大倉陶園であれば、打ち合わせも簡単だったろうし、試作品のやり取りもスムーズ、かつ短時間で出来たので、ヨーロッパの有名ブランドではできないサービスも可能だったはずです。
そうした数多くの要因が大倉陶園のご贔屓筋を増やし、さらには、大倉陶園を世界一の磁器メーカーに育てようとの意志が集結したのだと思います。
では、それだけ多くのVIPから支持された大倉陶園を創った人物とは、どんな男だったのでしょうか?
世界最大のセラミック企業グループである森村グループの祖 森村市左衛門の盟友であり、義兄弟であった大倉孫兵衛は、錦絵の制作・販売を家業とし、開国後、横浜で錦絵の販売を手掛けたことをきっかけに、出版業や洋紙問屋へ事業を拡大しました。
その後、森村組に参加し、森村市左衛門と共に、日本の陶磁器の米国輸出により外貨を稼ぐ一方、明治20年代以降から大正期にかけ、日本の製陶業の近代化に尽力した人物です。
※森村グループは、TOTO、ノリタケ、日本ガイシ、日本特殊陶業、大倉陶園、森村商事で構成される世界最大のセラミック企業グループ。INAXもかつては森村グループの一員でした。
大倉孫兵衛を語るには森村市左衛門の存在は必須で、少しだけ、森村市左衛門について紹介します。
森村市左衛門は武具や馬具を主に扱う老舗の六代目で、開国後は舶来品を大名相手に商いしたり、洋服裁縫店を開いたり、常に時代の先端を駆け抜けた人物です。
森村は外国人に牛耳られていた日本輸出入を憂い、自らの手で貿易を行う事で、日本国を豊かな国にしたいとの志を持っていました。
夢の実現の為、弟の豊を知り合いの福沢諭吉に頼んで慶応義塾に入学させ、英語や簿記を学ばせ、福沢の勧めで佐藤百太郎(順天堂大学やその附属病院を創立した佐藤尚中の長男)が募集したアメリカ行きに参加させました。渡米費用捻出の為に、妻のかんざしまで売り払ったと伝えられます。 渡米費用三千円を資本金に森村組を設立し、日本から様々な商品(新品も中古も)を送らせ、ニューヨークの森村ブラザーズで販売をしました。
森村の相方として、日本での品物の買い付けを取りまとめしていたのが、大倉孫兵衛です。試行錯誤の結果、日本からの輸出は新物の陶磁器にすると決め、森村は帰国し、数多くのセラミック企業を立ち上げることになります。 なお、最初に販売した新物の陶磁器はお神酒徳利で、米国人は花瓶だと思って大変に売れたとの記録が残っています。 米国にリスクを取って打って出る商魂は森村が担い、日本国内での製造や買い付けを大倉が担ったということです。
長男和親は日本陶器(ノリタケカンパニーリミテド)・東洋陶器(TOTO)・日本碍子(日本ガイシ)・伊奈製陶を始めとする、我が国の近代製陶業の基礎を築きあげた人物で、世界最大の陶磁器産業集団「森村グループ」の全てを育てた男です。
大倉孫兵衛と息子の和親が『この上なき美術品』を作る為に設立したのが大倉陶園です。初代支配人の日野厚が大倉親子の命を受け、世界最高峰の磁器製造に挑みました。大倉陶園の製品の裏印にはOACの文字が刻まれていますが、これはOkura Art Chinaの頭文字から来ています。つまり、単なる陶磁器ではなく、美術陶磁器という新しいビジネスモデルを開拓する為に、大倉陶園は設立されました。
以下が、大倉孫兵衛が残した、大倉陶園の設立にあたっての言葉です。
是は利益を期して工場を起す事出來ず。寧ろ道樂仕事につき一人の獨業として他に迷惑を掛けぬ趣向でなければ思ふ様な道樂は出來ぬ。依て他に關係なく獨立にて作るを良とするものなり。全く商賣以外の道樂仕事として、良きが上にも良き物を作りて、英國の骨粉燒、佛國の「セーブル」、伊國の「ジノリー」以上の物を作り出し度し。利益を思ふてはとても此事は出來ぬ故、全く大倉の道樂として此上なき美術品を作り度し。既に蒲田に一萬三千坪許りの地を買入れたるにつき、此地に工場と共に別莊の如き見本場を作り、花壇も作り、工場からして美術の工合に作り度き事、此事は萬事和親に任せ、日野氏茲に来つて圖案設計を始める。
大正七年七月十八日 大倉孫兵衛 手記 時年七十六
1919年5月15日、東京蒲田の地で工場建設が着手され、その日が大倉陶園の設立記念日となりました。
初窯に火が入った段階の1921年12月17日、大倉孫兵衛は惜しくも他界し、和親が二代目園主となりました。翌1922年12月、孫兵衛の一周忌に初窯製品である白磁薄肉彫蓋付菓子鉢と銘々皿が仏前に供えられ、大倉陶園は世に出ました。
その後、日野厚の陣頭指揮下、大倉陶園は世界のトップブランドの仲間入りを果たし、関東大震災、第二次大戦の困難を乗り越え、日本最高の磁器メーカーとして、現在も皇室をはじめとする数多くのご贔屓筋に愛されます。
大倉陶園の魅力は単なる磁器としての魅力ではなく、明治期以降、日本が欧米の強国と渡り合えるようになるまでに成長し、その後、第二次大戦で灰燼と帰した国土と産業を蘇らせた、日本人の地道でひたむきな物作りのこだわりが、西洋食器の姿で表されていると言えます。
昭和天皇の御一族が最大のご贔屓筋という事実は、日本人の心や文化を刻み込んだ西洋食器こそが大倉陶園の本質だと思います。
大倉陶園の魅力を表す、様々な技法やデザインを支える、製造物としての優位性があります。
それは磁器の原料と焼成技術です。大倉陶園を実質的に創業した大倉和親が、単なる美術品ではなく、食器を産業として確立する=実用食器メーカーとして、大倉陶園が世界に認められる為の譲れない品質へのこだわりだったとも言えます。
大倉和親は実用食器の主眼を四つあげています。
一、 美観であること(装飾物ではない)
二、 清浄なこと(汚れっぽくてはいけない)
三、 使い途にあっていること(日常生活に役立てば、必ず喜ばれる)
四、 堅固なこと(強くなければいけない)
この四主眼を揺るぎないものにする為、創業以来、原料と焼成技術へこだわり続けてきたと言えます。このこだわりが、大倉陶園の器が数多くのご贔屓筋に認められ続けた理由でもあります。
韓国河東産の最高級カオリンを70%使い、長石と珪石を調合し、粉砕して素地にしています。カオリンとは中国江西省の景徳鎮付近の山、高嶺(Kaoling)の名に由来する、磁器などの原料となる、長石や雲母などが風化してできた粘土です。
大倉陶園では創業以来変わることのない原料調合で、『セーブルのブルー、大倉のホワイト』と讃えられる白生地を実現し、同園製品の根幹と成しています。
大倉陶園の白色度は89。100が真っ白で0が黒です。白すぎても味気なく、暗くなると料理も絵柄も映えなくなります。そこで、到達した究極の白地は89です。
カオリンの比率が70%と非常に高いので、融点が高くなります。カオリン単体では1800度近くなる融点ですが、珪石(ガラス化する素材)と長石(融点を下げる)を混ぜることで、1460度で焼成しています。
白にこだわると融点が上がるので、当然、焼成コストも高くなりますが、大倉陶園では最高の白い肌目を出す為に、最高温度1460度で本焼きをしています。
究極の素地配合と高温焼成により、滑らかな肌合いの白と、極めて硬く堅牢な磁器の特性を実現しています。
大倉陶園では完璧な白磁の美しさを創り上げるために、最高級カオリンを贅沢に使用。
焼成には世界でも類を見ない1460度の高温で本焼きをするなど、卓越した技法を完成させました。
大倉の技法は工業製品としての生産性を度外視して追求されたもので、実用食器と言っても、美術品を創る行程に似た試行錯誤で生まれたものです。
何故?そんな非経済的な取組みが可能だったのか?ひとえに大倉陶園が大倉家による個人経営だったからです。
大倉孫兵衛の言葉にある、『道楽仕事』『良きがうえにも良き物を作りて』にその意気込みが読み取れます。
欧州の名窯の技法の導入はもちろんのこと、日本の伝統的技法の洋食器への応用など、まさに、日本の大倉陶園だからチャレンジして、獲得した様々な技法が今も受け継がれています。
意匠については、白い生地を活かす為、模様で器を埋め尽くさないことが基本です。
大倉陶園は日本の洋食器メーカーとして、日本の文化や自然をモチーフにした意匠へのこだわりがあります。
日本の窯としてのアイデンティティと伝統の技と引き継ぐ心が、大倉陶園の価値を守り、これからをその心は変わることなく、技術やデザインや製品は更新され続けていくはずです。
大倉陶園の100年近い歴史は優れた経営者・デザイナー・技術者たちの歴史でもあります。中でも、1924年、東洋陶器(現TOTO)初代社長 百木三郎の三男として生まれた百木春夫が、大倉和親の美に対する意識と、それまで蓄積した技術力を集結し、卓説したデザイナーとして、また、経営者として、大倉陶園を世界でも最高の磁器メーカーのひとつに育てたと言えます。
食道楽の父と共に幼少の頃から美味しいものを食べ、味覚を養い、うまいもんを作って、人に振る舞うことを身上として79年の人生を全うした男は、東京美術学校(現東京藝術大学)工学部鍛金部で金属をたたき、立体デザインを学び、母方の叔父が設立した『道楽として美術工芸品を作る』大倉陶園に1948年(24歳)に入社しました。
主な制作歴を見るだけで、百木春夫の凄さが伝わります。
呉須正倉院、ブルーインペリアル、スイートメモリー、ホワイトマスターピース、クラッシックローズ、一本の薔薇、団栗のバラードなど、数々のデザインを手がけ、大倉陶園の不動のラインナップを作った経営者でありデザイナーは、皇室関係の仕事を賜ったことを終生最高の栄誉としていました。
創業の1919年から1945年(終戦)までに製造された、いわゆる『オールド大倉』はそのほとんどが皇室や名家のオーダーメードでしたが、戦後、進駐軍の大量発注に支えられた時代を経て、現在の大倉陶園の基礎を作った人物こそ百木春夫でした。
私(萩原章史)が惚れ込んだ大倉陶園の世界を、時間を掛けて、シリーズでお伝えしていきます。百木春夫が生み出した数々のロングセラーデザインはもちろんのこと、私がオーダーメードしている酒盃企画も時間を掛けて、そのオーダーメードプロセス自体をご紹介したいです。
還暦の祝い、出産祝い、創立記念品、卒業記念品、日本人はお祝い事が大好きです。また、自分の器、我が家の器、我が社の器、日本人にとっての紋付袴と似た、アイデンティティを強く感じる価値ある磁器の良さは、見て触って使ってみればわかります。 貴方もきっとオーダーメードしたくなるはずです。
一本の薔薇の花で女心をつかまえる!そんなコンセプトで創られた皿。
1990年に発表されたゴージャスな作品は、バブル絶頂期の日本人が持っていた、何でも欲しいものは手に入れたい!そんなパワフルでエゴすら感じさせる情熱・情愛・恋心を表わす、百木春夫の傑作です。
特注を除き、大倉陶園のラインナップで最大級の直径30.5センチメートルの大皿。
大倉陶園にしか出来ない技法である、エンボスの黄金に囲まれた大倉の白地に描かれた一本の薔薇。
レッド・イエロー・パープルの三色がありますが、やはり、圧巻は赤でしょう。
この皿を贈られた女性は、よほどの野暮でない限り、喜びを感じるはずです。百木春夫は自身の「軽山花の庭で」という題名のエッセーで、この作品についてこうコメントしています。
「一本のバラの花」についての百木のコメントを読む
明日には満開になるであろう蕾の薔薇。余白の白が「もう、勝手にしてくれ!」みたいな男の叫びを感じさせます。
惚れた女へのプレゼントとして実に欲しくなる、動機が不純な圧巻の皿です。
ジョンレノンも愛したと伝えられる、1960年以来の大倉陶園のロングセラー
素焼きに下絵付けをし、釉を施し、本焼きをする、染付技法という伝統的な装飾法で、本焼きで焼き物が縮むことを計算し、かつ、素焼きに染み込む顔料のにじみも計算して、一枚一枚を職人が絵付けしていきます。
素地と釉薬に挟まれた呉須の色は永久に保たれ、上絵付けの盛絵具のエメラルド色と縁取りのプラチナ仕上げが、シンプルな色遣いに花を添えてくれます。
1960年、創業の地の蒲田から横浜戸塚への移転の年にデビューした大倉陶園のロングセラーは、正倉院に納められているシルクロード経由の御物に表わされた、忍冬唐草文や唐花文様から想を得てデザインされました。
大倉陶園の数多くの絵師の中でも、呉須正倉院を手がける事ができるのは一人。まさに職人の人生の一部を具現化した器です。
本焼きで不合格になるものも多く、不合格になる覚悟で絵付けをするという、とても贅沢なデザインです。
落ち着いたデザインに、プラチナの縁取りと盛絵具のアクセントが、多くの男性ファンを魅了し続けて五十年以上、まさに大倉陶園の代表的な人気シリーズです。
㈱食文化 代表 萩原章史
うまいもんドットコムでは日本を代表する磁器メーカー『大倉陶園』の製品を一部取り扱っております。
お客様の用途、デザインの傾向、ご予算などに合わせたオーダーメイド製品のご注文も承ります。
オリジナルマーク入れのご対応からフルオーダーまで承っておりますので、どうぞお気軽にご相談ください。
うまいもんドットコム お客様サポート(株式会社 食文化)
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