食文化×信和キンシ
コラボ企画
アミノ酸不使用
国産 吉切鮫のフカヒレ姿煮
マグロ延縄漁の発祥の地 館山布良村(めらむら)の歴史
館山の布良は、江戸末期から明治期にかけて全国一のマグロ漁獲量を誇る漁港があった村だ。「押送船(江戸時代の小型快速船)」により鮮魚を江戸に運ぶルートがあったことから、江戸前の鮨は、その大半が布良水揚げのマグロだったのだろう。冬の荒波の中、厳しい自然と闘いながら、漁師たちがお互いを励ましあうために歌った「安房節」もそれを証明する。村には銀行や遊戯場、湯屋などが並んでいたという。全盛期の明治41年には、クロマグロだけで約61トンの水揚げがあり、83隻ものマグロ船が停泊していた記録も残っているが、明治後半から徐々に下火になったようだ。
館山は房総半島の先端に位置していることから、三浦半島と並び、首都防衛の要となる土地でもあった。開国と平行して海防の重要性はさらに高まり、第一次世界大戦を経て、軍事力増強を目的に館山に航空基地の建設が進んだ。
昭和20年(1945)に終戦を迎えると、基地の跡地に昭和21年2月までアメリカ陸軍が駐留した。その後、館山で水産業などの産業基地にしてはとの意見もあったが、新たな自衛基地建設の意向が採用されることとなる。戦災により主要港の港湾施設が壊滅状態であったことから、昭和30年代から、政府の経済計画により港湾整備が進んだ。コンテナ貨物や船舶の大型化等、時代の変化に対応すべく港湾の大型拠点化が進み、銚子、焼津、気仙沼、勝浦へマグロ漁船は着くようになる。これが館山が辿った歴史である。
青木繁の有名な作品
「海の幸」にも
鮫が描かれていた!
よく見ると鮫を担いでいるのがわかる。明治時代を代表する洋画家、青木繁(誕生1882-没1911)の有名な『海の幸』という作品だ。明治に入り鎖国が解かれ、西洋絵画が普及を始めたのは明治29年(1896)。この絵は1904年、学生だった青木繁が仲間たちと館山布良の小谷家で滞在する中で制作された。そのころに描かれた絵というわけだ。
ではなぜ館山で鮫なのかというと、それは延縄漁の外魚として鮫がかかったからである。これを買い付け、館山でフカヒレ加工の文化が存在していた。鮫は漁師達の小遣い稼ぎになったのだ。
館山でたった1軒残る、
フカヒレ加工屋「信和キンシ」
そんな背景を持つ館山に、今も1軒だけフカヒレ屋が存在する。それが1964年創業 千葉県館山にある信和キンシだ。現在の加藤社長は3代目。おじい様が戦後に公務員を辞め、突然フカヒレ加工屋へと転身、今に至る。
気仙沼のような大産地の場合は、すり身屋とフカヒレ屋と骨屋と皮屋が一緒になって切り盛りしているが、館山ではそうはいかない。目利きの社長が厳選した質の良いヒレを仕入れて加工している。加藤さんは「目の前に水揚げされない弱点はあるものの、大手では出来ないような唯一無二のフカヒレを作りたい。」と言う。零細企業なので設備投資はなかなか難しいが、手間暇かけた丁寧な加工で、館山にフカヒレの信和キンシあり、と言われるべく意気込んでいる。
サメのひれを天日に干すと
金色のフカヒレに
原料は各地から仕入れ、冬になると干す。干すのは10℃を切るくらいの寒い時期が最適だ。乾燥状態を見ながら1〜2か月干す。ヨシキリザメやアオザメ、モウカザメ、ほかにも尾長ザメ、シュモクザメなど様々なサメのヒレを扱う。水洗いをして寒風にさらし丸干しを行う。これにより、仕上がりが金色になり、食べたときの感覚がふくよかに仕上がる。
加藤さん「昔は干しあがったものを商品として納品していたんですが、戻すときに臭いが出るし、干したフカヒレをもどした時と同様の商品を作る技術が確立したので、指名買いされることが増えています。」
骨をとり掃除をする
甲高い音がしたら干上げ完了
パックに詰めます
V型はアオザメ。
コラーゲン玉
特別企画!アミノ酸不使用
絶品のヨシキリザメのフカヒレ
当店で扱うものは、
業務用に冷凍保存する前の状態から、
さらにショウガなどで臭いを取り除き、
きれいに掃除して水抜きし、
パックの中にヒレと特製ソースを入れて
100度で10分加熱したものだ。
レトルトでは120度で加熱するが
それだと味が変わり、
ゼラチンも解け出てしまうので、
信和キンシではこの方法をとる。
しかもアミノ酸をはじめ添加物は一切不使用。
体にやさしい日常食になることを願って
特別企画だ。
まさにコラーゲンを独り占め!
フカヒレラーメンやフカヒレ丼などで
存分に楽しんでほしい。
姿煮
ほぐし煮
お届け日の指定が可能です
「国産フカヒレほぐし 煮込み」 モウカ鮫 胸ひれ使用 2袋(1袋:ふかひれ40g+ソース100g)※冷凍 信和キンシ
3,200円(税込)
- 販売中 在庫数 20
- プロの食材お取り寄せ店



